アートNPOフォーラム2025 アーカイブ
1日目 ふりかえる「懇親会 & ボチボチゆいごん聞いてんか(笑)」
日時:2025年2月22日(土)17:30–19:00
会場:ArtTheater dB KOBE
ゲスト:加藤種男(アーツカウンシルしずおか)/大谷燠(NPO法人DANCE BOX)/並河恵美子(NPO法人ARDA)
進行:甲斐賢治(NPO法人アートNPOリンク)
懇親会 & ボチボチゆいごん聞いてんか(笑)
甲斐:全国組織のアートNPOリンクが主催なのに、タイトルが関西弁で「ボチボチゆいごん聞いてんか」というのは変じゃないかと言われました。でも、これ実は種男さんが東京でも一度やっているんですよね。
加藤:そうです。武蔵野美術大学で「あかるいゆいごん」というシンポジウムをやりました。
(参考:https://acds.musabi.ac.jp/news/akaruiyuigon20230608/)
新井英夫さんから「障害を持ってもきちんと仕事ができることを示したい」と相談がありまして。新井さんを高齢者と呼ぶのははばかられるけれど、同世代の方々に集まっていただいて、「高齢者は何を考えているのか」を学生たちに聞いてもらったんです。思いのほか反響が大きく、とても面白い会になりました。
今回のアートNPOフォーラムをやると聞いて、それを思い出しました。そもそもこのフォーラムをどういうつもりで始めたかを話しておくのは、これから若い人たちが活動を続けていく上で意味があると思ったんです。失敗の部分を共有しておけば、同じ失敗を繰り返さずに済むでしょうから。
並河恵美子さん

並河:みなさん、こんばんは。今初めてどういうお話をしたらいいのかっていうのを加藤さんから伺ったんですけど(笑)。私は、なぜアートNPOを作ったのか、その時代背景や、自分がやってきたことを少しお話ししようと思います。“遺言”というより、これまで大変だったけれど本当に良かったと思える経験をお話しします。
NPO(芸術資源開発機構=ARDA)を作ったのは2002年なんですけれども、その前の1998年に、35年続けた「ルナミ画廊」を閉じました。
父が画家で、私は家で内職をしながら絵を描く父を見て育ちました。武蔵野美術大学の短大を卒業する頃、父が突然「恵美子、銀座にいい場所を見つけたから画廊をやろうよ」と言い出したのです。父はすでに50歳を過ぎていましたが、若い人たちが集まれる場を作りたかったのでしょう。「男の名前の画廊主より女の名前の方が柔らかくていい」と言われ、どういうことをしていいのかも分からないまま、まあなんだか面白そうだからやってみるかっていう感じで、20歳の私が画廊主になることになりました。右も左もわからないまま始めましたが、「20歳の画廊主」というだけで珍しがられて、新聞や雑誌に取材されることもありました。若さが持つ発信力というものを、あの頃に初めて意識しました。
ルナミ画廊と1960年代の前衛美術
当時(1963年)は、日本の前衛と言われた美術がすごく活発になってきた時代だったのですね。ネオ・ダダの作家たちが頻繁に出入りしていました。ハプニング――今で言うパフォーマンス――を次々に仕掛け、画廊は情報交換と議論の場になりました。議論が白熱して階段から転げ落ちる人まで出るような熱気でした。
その中で私は、プライベートフィルムを撮る人たちに興味を持ち、「ルナミ・フィルム・ギャラリー」を二、三ヶ月だけ開いたことがあります。ある日、金坂健二さんという方が「モデルをテーブルに寝かせて生クリームを塗り、それをぶつけ合う」というハプニングを行いました。そのことが「ハプニング!この不可解な芸術を広めた25歳独身女性」と女性週刊誌にパット出たりしました。私はただただ驚いて「大変、誰がお掃除するの」と思ったのを覚えています(笑)。超前衛アーティストが新しい芸術を模索する場を求めて、そのエネルギーが私の画廊にも溢れていました。
そんな出来事が、後に日本のアバンギャルド史の象徴的エピソードとして記録され、50年後に東京都写真美術館の展示(『エクスパンデッド・シネマ再考』2017、東京都写真美術館)にも取り上げられ、その後英文で出版もされたのです。私の記憶としては勝手なことをする人たちが、50年過ぎたら、美術の歴史の中にきちんと位置付けられ、日本でも、それから世界へも、出て行くのだと言う現実を思うと、長生きしてよかったと思います。長生きしなかったらアーティストが本当に育って世に通じるようなところまで見られない。そういう実感を持てるのはもしかしたら、今日の遺言じゃないけれども、長くやってきた思い出の一つです。
国際展への挑戦
1970年代に結婚・出産を経て、夫の赴任先インドネシアとの往復生活で、画廊からは10年ばかり遠のいていました。79年に父が他界しました。父は生前「恵美子、ルナミ画廊をやっていってね」と熱望していました。私は「やるわよ。これからは美術もインターナショナルな世界に出て行かなきゃいけない。私頑張るから、心配しないで!」と言ってね。それこそ父の遺言でした。それまでは父の傘のもとでお手伝いしてる感覚だったのですけど、これからは自分の考えで画廊をやらなくてはと決心し1980年から、自分の足で立つことになりました。その後20年弱はどっぷりと、現代美術の新しい表現を模索する日々でした。
そんな折、1人のオーストラリアの女性彫刻家、メアリーローズ・シンさんが個展を開きました。別れ際に私は「またね。Keep in touchね」って言って、オーストラリアの展覧会をやりたいと思うけど、うちの画廊だけでやったらそれで終わっちゃうけど、銀座の10画廊ぐらいまとめてやると大きな展覧会になるかもしれないと、ちょっと頭の中で浮かんだことを彼女に話したのです。そのことが思いがけない展開となったのです。1週間ぐらい経ってから「恵美子、この間言ってたことだけど、オーストラリア大使館の文化担当官の人が話を聞きたいって言うからランチする時間を作って」という電話がかかってきたのです。 私、びっくりしちゃってね。何も考えないで思ったことを口走っただけなのに、どうしようと思って。そのランチには出席させていただいて、そうしましたら「あなたが考えていることは素晴らしいから、ぜひ実行してください。」と。「来年視察に行ってほしい、そのためにオーストラリア・ジャパンファンデーションの方で助成金がありますから、それをすぐに申請してください。必ず通します」と言われました。
日本はその頃、ヨーロッパ、アメリカしか向いてなかったのですね。アジア太平洋地域のことなど眼中になくて。だけどオーストラリアは日本ですごくやりたくて、文化担当マネジャーが来日して各美術館に話をするけれど全然返事がなかったっていうのね。そういう時に街の画廊が10軒も一緒になってやってくれるのだったらぜひ実現させたいと。本当に1000万円出してくれるって言ってきたんです。
資金集めの経験もないまま、10軒の画廊をまとめ、草の根の国際交流展を実現しました。オーストラリアへ初めての視察旅行寸前に国際交流基金にも直談判し、1週間後に100万円の支援を得ました。当時では考えられないスピードでした。
結果として1983年にオーストラリア現代美術展を東京で、1985年には日本現代美術展をメルボルンで開催しました。
[CONTINUUM’83 / CONTINUUM ‘85] … 二国間の交流が長く続きますように、という意味を含んだ展覧会名です。東京では個展、テーマ別グループ展、シンポジウム、等を実施しましたので、25軒でやりました。この2つの展覧会で両国のアート交流の基礎作りができたのです。
日本で「草の根国際展」を行ったのは、その頃としては初めてでしたね。その頃日本の状況は、経済的には上向きでバブリーな時でしたし、各都道府県で美術館を持つっていうのがステータスになってたので、あっちでもこっちでも美術館がたくさん建ちました。この経験を通して私は、国際展の企画、支援金集め、日豪両国のアート支援について貴重な学びを得て、以後の活動に活かすことができたと思っています。
「人と人の出会い、努力すること、納得するまで話し合うこと。それをきちっとやっておけば、想いはかなう」と実感した時期でした。今思えば、これが私の遺言かもしれないと思います。
NPOへと続く道
1990年代には日本国内の若手作家の発掘に力を入れました。1992年東京現代美術画廊会議を設立、若手作家の支援と現代美術基礎作りを問いました。各画廊から35歳以下の若手作家を選び『新世代の視点―10画廊からの発言』を企画しました。貸画廊というと「場所を貸すだけ」と思われがちですが、私は作家と直接会って話し、その人の芯を見て展示を決めていました。お金よりも志。学生でまだ早いと思えば「もう少し自分を固めてからおいで」と伝えたり。 この展覧会は私が画廊を閉じた以後も、毎年夏に企画開催されています。
私はこんなことをしながら、画廊運営に迷いが生じていました。そんな時、上野の東京都美術館で「エイブル・アート展」を見ました。展示を見た瞬間、涙が止まりませんでした。それまで私は「コンセプト」や「作家の意図」といった、頭で作品を見ていた。けれどエイブル・アートの表現は、本当に人間の底から出てきた、すごく純粋な表現で、非常に心を打たれました。
これからはアートの本質を社会に活かすことが大切になるのでは、今までのことを続けていってはダメなんじゃないかと思って画廊をやめる決心しました。それからNPOを作ったのです。NPO以前のことをまずお話しさせていただきました。
大谷燠さん

70歳を過ぎるとね、耳は遠くなるし、目は霞むし、長い話もできないし、聞き取るのも難しくなってくるんです。でも、それが面白いなと思って。生きているっていうことの延長上に死があると思ってたのが、死がもうそこそこまで来てて、あと何年かしか生きられへんなっていう感じになってくる。まさに遺言ですよ。だから。
DANCE BOXのはじまり
大谷:もともとDANCE BOXは、大阪・千日前の繁華街にあった民間ホールの中で、1996年に立ち上げたんです。
日本のダンスというと、伝統舞踊を除けば、西洋の影響を強く受けたダンスっていうのは「バレエ」か、「モダンダンス」と呼ばれる現代舞踊協会系の活動が主流でした。
じゃあ、それと違うような新しいダンスの活動ができないだろうかっていうふうなことを考えていた当時20代から40代ぐらいの若いアーティストと一緒に立ち上げたのがDANCE BOXです。それが1996年でした。
そこから2001年まで活動してたんですけれども、それが立ち行かなくなりました。民間の論理ですよね、バックがないとやっぱり続けて継続していけない。アートっていつもそういうところに置かれてますから。次の拠点をどうしようかといろいろ探していた時に、大阪市から声がかかったんです。
フェスティバルゲートとの出会い
フェスティバルゲートは、新世界・新今宮にあった複合施設で、ユニバーサル・スタジオ・ジャパンができる1年前に開業しました。ところが、USJができた途端に人が流れ、フェスティバルゲートはあっというまに閑散となってしまったんです。フェスティバルゲートだけではなくて、当時の関西にあった遊園地は、枚方パークと生駒山上遊園地、みさき公園の遊園地を除いて全部潰れたんですね。そんな間の悪い時にフェスティバルゲートに遊園地を作ったもんですから、もう全然お客さん入らないわけですね。それで、大阪市の方から空いた場所で活動しないかと。それで、甲斐さんと、現代音楽をやっている内橋(和久)さん、一年遅れてですけど(上田)假奈代さんが来て、4つのアート系のNPOがそこで活動することになりました。
公設民営のはざまで
大阪市としては「ダンスの公演があります」と言えば、劇団四季が来るような大規模なものを想像していたようです。お客さんが来るところだって思ってはったんですね。でも実際は100人入れば上出来。それぐらいの規模感でした。
でも、それは、すごく大事なことで、小さな活動であるっていうことは。アメリカのオフ・ブロードウェイとか韓国だとソウルにあるテハンノっていうところなんかもそうなんですけれども、廃墟のような、辺境の地に新しいアートの拠点ができていくっていうんで、まさにフェスティバルゲートはそんな感じでしたね。
市は「10年計画」として運営を考えていました。我々もそのつもりで計画を立てて、それなりの改装工事をして、借金して、それで活動を始めるわけですけれども、やっぱり劇団四季とは違いますから、お客さん入らないし、売り上げも上がっていかない。そういう時に市としてはもう出て行ってほしいっていう感じになって。結局5年ももたずに我々アート系のNPOは出ていきました。フェスティバルゲートを借りる時に、行政から「契約上の理由でNPO法人化してほしい」と要望があったのを覚えています。
それでNPO化して活動を始めるわけですけれども、この時に4つのアートNPOが同じ場所で活動を展開したっていうことは、すごく大きかったと思うんです。
お互いにそれぞれの得意なジャンルがあって、影響し合いながら試行錯誤していました。仲間がいるなって感覚を僕もすごく持っていて、そのことが新しいアートセンターになるんじゃないか。フェスティバルゲートは当時、結構国内外からも注目された覚えはあります。けれども、最終的には経済の論理で追い出されてしまった。
假奈代さんは釜ヶ崎に残り、甲斐さんは仙台のメディアテークへ、内橋さんはオーストリアにいってそれぞれ別の道を歩んでいきました。一時は「フェスゲ本を出そう」と3人で月1回集まっていたこともありましたが、結局続かなくて。
「ビッグ盆!」の記憶
出ていく前、4回ぐらい創造都市とかいろんなテーマでシンポジウムを開きました。
でも地元の新世界のお店の人らが「話し合いばっかりしてもつまらん、何かやってや」と言われたんです。それで始めたのが、盆踊りの復活企画「ビッグ盆!」でした。フェスティバルゲートの中に丸太で櫓(やぐら)を組み、通天閣を模したんですけど、これまたすっごい人数集まったんです。コンテンポラリーダンスでは集まらない人々が盆踊りだったらこんだけ集まるんだっていう風な感覚は当時ありました。
新長田へ ― DANCE BOX 再生の地
NPO法人化したんですけれども、結局出て行かざる得ないことになって。劇場という空間にこだわって、最初は大阪で劇場になる場所を探しましたが、柱がある建物では舞台が組みにくい。条件に合うのはパチンコ屋くらいで、そういうところを調べていって、でもなかなか条件に合うものはなくて。そんな時に、我々が開いたシンポジウムに神戸市の職員の方が1人熱心にずっと来られていて、神戸に来ないかっていうお誘いがあって。
案内されて新長田に行くと、フェスティバルゲートと同じ“匂い”がしたんですね。ペンキを塗りたての空き店舗が多くて。こういうところにいつも新しいアートをやっている人間は追いやられるんだ、それはもうしょうがないなと思って。でも、かえって面白いかもしれないな、と。この辺はお好み焼き屋さんがすごく多いんですが、帰りにその中の1軒に入ったら、またこれがいいんですよね。テレビがついてて、昭和の古いポスターが貼ってあって、演歌が流れてきて。テーブルについてその時僕はやきそばを頼んだんですけれども、ぼくがお箸くださいって言ったら、お店のお姉ちゃんが「え?やきそばはコテで食べるもんやで」と怒られるとかね。席と席の間の狭い店だったんですけど、こういう通り方をしてくださいと全部指示されて。すごいところやなと思って。でもこういうところが面白いなと思ってね。で、決めました、新長田に来ることに。そこから今の活動につながってるんですけれども。
そして今
2009年にこの場を開いて、今2025年ですか。当時アート系の施設は神戸映画資料館っていうのが駅の方にあるんですけども、そことDANCE BOXだけだったのが、今いろんなアートやコミュニティスペースが増えて、自主的にいろんな人が運営している。それで実際に住む人が、若い人が増えてきてるんですね。そういうことがすごくいい環境になって、面白いことになってきてるなというふうに思っている今日この頃です。
加藤種男さん

加藤:
2003年にアートNPOフォーラムが始まる頃。ちょうど2000年頃、行き詰まりを感じていました。
1995年の阪神・淡路大震災を経て、企業人が初めて“ボランティア”という形で社会に出ていく時代が始まりました。それ以前の日本では「ボランティアをしている」と会社で言うこと自体が難しかった。そんな暇なら、お前ビール一本でも売って来い」と言われる時代だったんです。 “隠れボランティア”と呼ばれていた。
震災のとき、神戸の明治生命のビルが避難所になりました。本社の許可を待っていられない状況のなかで、現場の課長が独断で「避難所にしよう」と判断した。そういう行動があちこちで起きていた。つまり、“上”が動かなくても“現場”が動く。そうした動きがNPO法制化の大きな原動力になったのです。
NPO法成立と企業の関与
加藤:当時、経済企画庁(現・内閣府)の中に、市民活動を扱う担当部署が立ち上がりました。さらに経団連(日本経済団体連合会)の社会貢献委員会も「法制化を応援しよう」と動きました。
企業側の代表には、日本IBMの椎名さん、朝日生命のワイスさん、アサヒビールの樋口会長などがいました。僕もアサヒビールのメセナ担当として、彼らを説得する立場でした。参議院の審議では、経団連の若原さんが参考人として発言し、「企業としても市民活動を支援すべきだ」と公言してくれました。これで法案は通り、1998年のNPO法成立につながりました。
アート業界の反応とフォーラムの設立
ところが、アート業界ではNPOへの関心が薄かった。「組織化なんてつまらない」「一匹狼でいいじゃないか」と言われました。
当時、僕はアサヒビールの企業メセナ担当で、経団連や企業メセナ協議会とも関わりがあり、芸術文化の支援をどう持続的に行うかを考えていました。企業は業績次第で方針が変わる。だからこそ、アートNPOが自律的にネットワークを作るべきだと思ったのです。
2003年に「アートNPOフォーラム」を立ち上げました。とはいえ、最初は散々でした。「NPO?そんなものやってどうするんだ」と。しかし、阪神淡路大震災の反省があった。あのとき、アートはほとんど役に立たなかった。その経験が、アート界に“つながりを持つ”という意識を生んだのだと思います。
第1回のフォーラムで、僕は勢いでこう言いました。「メセナの時代は終わった。これからはアートNPOの時代だ!」
翌日、毎日新聞が大見出しで「メセナの終焉」と書いた。記事は嬉しいけれど、企業メセナ協議会の会員たちに謝って回る羽目になった(笑)。しかし結果的に、この騒動を通じてメセナ特集を作ってもらうことになった。記事も、アートNPOも、ちゃんと社会に位置づけられていった。今思えば、失敗談のようでいて、必要なプロセスだったと思います。
民間で自治を行うことが公共
「遺言」として伝えたいのは、民間で自治を行うことこそ“公共”だということです。NPO法は関係者の間で徹底的に議論して作られた法律です。賛成も反対も含めて、すべての立場が話し合った。そこに意味がある。
それに比べて、文化芸術基本法や劇場法の制定はあまりにも拙速でした。「文化振興に反対なのか」と言われたら誰も反対できない。議論がないまま“いいことだから”と通す。でも、議論のない法律は使えない。
だから僕は、民間が自ら自治を行うこと――それを公共と呼ぶんだと思っています。もしそれが失われたら、僕は幽霊になってでも化けて出ます(笑)。
私たちが陥りがちな罠があります。優秀な人がいると、その人に任せきりになってしまうこと。地方で言えば、仙台のKさんとか、九州のトラさんとか(笑)。そういう人たちは必要なんだけれど、同時に“自分で考えることをやめる危険”がある。だからこそ、徹底的な議論が必要です。議論こそが民主主義の筋肉です。
甲斐:
僕、1998年当時は大阪予防医学協会で働いてて、毎日小学校の検尿を回収してました。その車の中で「特定非営利活動法が成立」というニュースを聞いたんです。これ、めっちゃおもろいなと思って。
いろんな仕事をしてきて感じたのは、情報とお金の流れがいつも同じ方向にしか動かないってこと。社長からバイトに流れるけど、逆はない。NPO法を聞いたとき、「これは違う構造を作れるかもしれない」と思いました。
そして、10人の構成員で議決するという仕組み。自分たちの価値観で「これがアートだ」と話せる。
これが僕らに必要だと思って、remo(記録と表現とメディアのための組織)を立ち上げた。そこに加藤さんが現れた(笑)。
最初は“大企業の部長が来た”みたいな感じだったけど、話を聞いてるうちに「なるほど」と思った。アートNPOリンクの必要性がわかってきたんです。
アートの価値が東京から一方的に降ってくるのはおかしい。自分たちで考え、自分たちで議論しながら作っていく。それがNPOの意義なんだと実感しました。
並河:
加藤さんの裏側の話を聞いて感動しました。
私は1990年に企業文化部ができた時、とても嬉しかった。以前、オーストラリア展の資金集めで企業にお願いしても、相手にされませんでしたから。
花王石鹸に支援をお願いしたときも「美術館には出すけど画廊には出しません」と言われた。でも私は食い下がって、「私たちは作家を育ててる。見に来てくれる人がいないと始まらない」と説明しました。結果、見事に支援をもらえたんです。
その経験がNPO設立につながりました。アートには誰もが持つ“表現したい”という衝動がある。それを引き出せるのはアーティストだと信じています。
加藤:
並河さんのARDAの「アートデリバリー」――あれは本当に素晴らしい試みでした。
今、私が注目しているのは浜松の「クリエイティブサポートレッツ」。久保田さんの取り組みです。障害者の行動を“できないこと”ではなく“その人にとっての表現”として捉える。それが新しいアートの広がりを示しています。
ただ、課題も多い。福祉もアートも、給料が安い。構造を変えなければ持続できない。これが私の“遺言”です。アートNPOはこの構造に挑まなければいけない。
甲斐:
remoでも「労組を作ろうか」という話が出たことがあります。でも、NPOで働く人が家を買えるようになるには、制度そのものを変えないといけない。ロビー活動も東京中心で、地方では難しい。
それでも地域とつながって続けるしかない。大谷さんの言う「里街(さとまち)」のように、循環する場をつくること。それがアートNPOの使命だと思います。
大谷:
新長田に来て感じるのは、ここが「里山」「里海」に対して「里まち」なんだということ。
地域で人が循環していく。出会い、話し、遊ぶ。その“遊び”が豊かさを生む。この街の循環の中でアートが機能する。そういう社会を、これからも作っていきたい。
甲斐:
最後、すごくいい話でした。ありがとうございました。