全国アートNPOフォーラム 2025 アーカイブ①

  • 2026年1月25日

アートNPOフォーラム2025 アーカイブ
1日目 ふりかえる「態度が歴史になる〜フェスゲとその後を考える」

日時:2025年2月22日(土)15:00–17:00
会場:ArtTheater dB KOBE
ゲスト:上田假奈代(NPO法人ココルーム/堺アーツカウンシル)
    甲斐賢治(NPO recip/せんだいメディアテーク)
    横堀ふみ(NPO法人DANCE BOX)
進行:大澤寅雄(文化コモンズ研究所/NPO法人アートNPOリンク)
年表・資料提供:笹島秀晃(大阪公立大学(当時))

新世界アーツパーク事業とは
大澤 全国アートNPOフォーラムは2003年から始まり、その第1回は神戸で開催されました。当時はまだ新長田にDANCE BOXはなく、2013年に再び神戸で行われ、今回で3回目の神戸開催になります。
 本プログラム「態度が歴史になる〜フェスゲとその後を考える」では、DANCE BOXの横堀ふみさん、ココルーム・堺アーツカウンシルの上田假奈代さん、recip・せんだいメディアテークの甲斐賢治さんをお招きしています。
「フェスティバルゲート」とは、大阪市浪速区恵美須、新世界エリアにあった大阪市交通局の車庫跡地に建設された、ジェットコースターが絡みつくような再開発ビル(1997年開業)です。ところが開業後すぐに客足が遠のき、空き店舗が増えて急速に低迷していきました。

 大阪市は市民に誇れる文化都市を目指すため、将来を担う若い人材のサポート、評価の定まらない実験的な活動の支援のため、機能的で専門的な芸術支援拠点としてこのスペースを活用して「新世界アーツパーク事業」を展開しました。事業の主体は大阪市、運営は財団法人大阪都市協会。恒常的に活動していたNPOが、音楽のビヨンドイノセンス、メディアのremo、コンテンポラリーダンスのDANCE BOX、現代文学のココルームの4団体に加え、資料室「マテリアルルーム」がありました。

上田 ココルームの名前は、この「マテリアルルーム」に由来しています。

大澤 つまりココルームの原点はそこにあったのですね。雨森信さんのブレーカープロジェクトも同時期でしたね。

甲斐 補足すると、ブレーカープロジェクトは新世界アーツパーク事業とは別事業ですが、ディレクターの雨森信さんがremoのメンバーとしてこちらにも関わっていました。

大澤 笹島さんの年表(リンク:新世界アーツパーク事業関連年表 笹島秀晃作成・大澤寅雄 加筆修正)読み取ると、1990年代後半に大阪市が文化振興の制度を整備し、1999年にフェスティバルゲートの活用が加速したようです。そこで新世界アーツパーク事業、いわゆるフェスティバルゲートで、そこのNPOたちが活動を始めた2002年に新世界ブレーカープロジェクトや大阪アーツアポリアなど、大阪市が主導しながら(NPOの法人格をもっているかは別として)民間の非営利活動が立ち上がっていく過程が見えると思います。
 ちなみに、DANCE BOXはフェスゲ以前からトリイホールを拠点にしていましたが、当時、横堀さんは?

横堀 フェスゲ前からボランティアスタッフとして関わっていました。当時、コンテンポラリーダンスの公演は赤字が膨らむばかりで継続が難しく、アーティストたちが集まり、リスクをシェアしようと始まりました。当時トリイホールのプロデューサーだった大谷とディレクターで振付家の冬樹さんを軸に、アーティストの運動体として、任意団体「DANCE BOX実行委員会」がトリイホールから始まりました。トリイホールは大阪・難波にある千日前の民間劇場で、落語や音楽も行う多目的な空間でした。

大澤 トリイホールを離れたのは?
横堀 トリイホールからの退出の話とフェスゲ入居の話が同時進行していて、移転するにあたってNPO法人化しました。
大澤 甲斐さん、remo立ち上げはいつですか?
甲斐 1999年です。大阪市内のアート情報誌『カルチャーポケット(CP)』があり、僕は2000年に芸術創造館の立ち上げに関わっていました。
 その流れで、2001〜2002年に映像の研究会を行ったことがremo誕生のきっかけでした。メンバーには雨森さんもいました。

新世界アーツパーク事業の終了
大澤 2004年に大阪市芸術文化振興条例ができ、文化政策は勢いづきました。ところが翌2005年、突然「移転の打診」がありました。
上田 2005年5月ごろだと記憶してるんですけど、急に移動の話が出てきて、晴天の霹靂でした。10年やると言われていたのに3年目で「移動してください」と。最初は信じられませんでした。代替場所を探しましたが、爆音系が多くひとつの場所に入居できる建物がなく、残るしかないという状況でした。それでも2007年夏には「12月末で終了」と通達が来ました。

甲斐 その後、遊園地では無くなった後のフェスティバルゲートにまつわる公共活用事業の公募があり、僕らNPOが集まって実行委員会を作り企画提案しました。福祉・国際交流・文化などを包括する壮大な構想を数日徹夜で作成し、トップ評価でしたが「5点足りない」という理由で、「採択事業なし」となりました。
大澤 新世界アーツパーク事業を10年間行うというのは、大阪市から言われたということでしたが、文章や契約は取り交わされておらず、3年で終了。建物は一般入札後に解体され、パチンコ店になった。
甲斐 呪われた場所だね。鬼門とも言われていましたね。

「ビッグ盆!」
大澤 一連の流れの中からここで議論したいのは、どういう態度でこういう変化に向き合うべきだったんだろうかということです。一つ、このタイミングで「ビッグ盆!」というのが非常にユニークなアクティビティだったと思うので、始まった経緯やどんな内容だったのか教えてください。
横堀 きっかけは日本橋の商店街の方の「話ばっかりせんと、なんかやってよ」という一言。約50年のあいだ途絶えていた盆踊りを復活させました。4団体が合同で行った初の試みでした。大阪プロレスやOSK日本歌劇団も参加しました。
上田 子どもたちと作詞ワークショップをして、新しい盆踊りを作りました。詞ができたら音楽を作り、DANCE BOXが小学校で振付を制作。かつての「新世界音頭」も復活させました。
甲斐 そもそも盆踊りがなくなったのは、西成暴動の影響だったと聞きました。
上田 それまでにもそれぞれの団体が地域に出て、取り組みをしていました。DANCE BOXは地域に出て踊ってらっしゃいました。雨森さんは聞き取りをしてアートのことをしたりとか、ココルームも地域と連携していろいろな取り組みをしていました。remoは何もしていなかった。そんな風にしてやっていたのが、結び直される形で盆踊りにつながったんですよね。


大澤 結果的にイベントは停止され、2008年にはフェスゲ内のイベントが停止されて、2009年にはみなさんが出ていくという形になって、大阪市は3つのNPOに新大阪の場所を勧めたんですよね。
上田 新大阪の旧勤労者センターです。ココルームは1年間、新大阪と西成の両方でやっていました。
甲斐 DANCE BOXは神戸へ、remoは、行政あかんな、付き合ってられへんなと思ったので、北加賀屋に移って、7団体と1つの工場を借りてコーポ北加賀屋という場所を作ることとなります。工場の所有者は民間で、現在は、「おおさか創造千島財団」をなさっている大地主です。
大澤 家賃が無料だったフェスゲ時代とは違いますね。
上田 フェスティバルゲート自体の赤字運営を埋めるために文化予算が回っていたと聞きます。
甲斐 文化から交通局へ。税金で税金の穴を埋めていた構造でした。
大澤 新世界アーツパーク事業が穴を埋める理由になっている。逆に契約書があっては困る理由があったのか?
甲斐 そこは分からないですね。
上田 議会を通していなかったことを後で知りました。
大澤 付け加えておくと、よく大阪維新の会で文化予算がカットされたっていうのが2008年に年表に出てきていますが、フェスティバルゲートの事業終了自体は、別に維新が当選したからではないですよね。
甲斐 そうです。橋下知事登場以前です。僕は同時に、2008年、2009年に大阪府立現代美術センターの指定管理にNPO法人recipとして入っていました。そこは知事が橋下さんになって状況が変わって、2010年に閉まりました。収蔵作品などは現在、江之子島文化創造芸術センターに引き継がれ、吉本興業が指定管理に入っています。
上田 もう一つ付け加えると、私たちは2001年の文化芸術アクションプランのビジョンに則って位置づけされていると思っていたんですけど、2004年の文化芸術集客アクションプランでフェスティバルゲートの取り組みの扱いがとても小さくなってしまいました。
甲斐 これは私見なんですけど、当時の大阪市は人口がまだ280万人いて、予算がニュージーランドの国家予算と同じと言われていました。官僚主導の強い体制で、担当者が干されてしまった。最後は体調を崩し、こちらから「もうやめよう」と言わざるを得ない状況でした。
大澤 アーツパーク事業を牽引されてきた担当者の属人性が強かったんですね。ある種味方になってくれる人だった人が、行政の中の組織構造というか力学で干されてしまったと。


フェスゲの4つの「態度」──自由・仲間・制度・社会

「自由」に対する態度

大澤 ここまでを振り返って、「態度」について語りたいと思っています。こういう大きな行政の枠組みに、いわばアートNPOのような力の弱い立場の人たちは振り回されてきたという見え方をするのですが、実際のところ私の知る範囲ではフェスゲに関わった人たちは非常にたくましく、いろんなふるまいをしてきた。いろんな態度で勝ち取った部分と、やはり負けた部分があったと思っていて、その態度の問題を語りたいです。
僕は4つぐらい特徴的な態度のありようが見えるかじゃないかと思いました。

 まずは「自由」に対する態度です。自分たちの場所を持てたことの、本当に純粋な喜びというか、自由に表現できるし、リノベーションも自分たちでやって、月間スケジュールに乗らないような、日常的な一緒にご飯食べるとか、パッと会って立ち話するとか、そこですごい重大な出会いがあったりとかっていう活動がたくさん起きているということ。普通の公共施設、いわゆる行政財産の中ではあんまり起きないような自由さがあって、そこに対する皆さんの素朴な喜びみたいなものを、「態度」として見たいなと思うんです。

横堀 行政が表現の内容に関わらないことが、まず大きかったです。劇場で何を上演しても口出しされなかった。 夜遅くまで作業して、飲んで、そのまま泊まって朝帰るなんてこともありました。本当はよくなかったのかもしれないですけど。やりたい放題できる環境があったことが本当に良かったですね。DANCE BOXは、毎月2、3本ぐらい、毎週公演があったんですけど、作品を上演したいというアーティストがすごく多くてプログラムが全然追いつかなかった。実験的な作品が次々に生まれていた。そういう「場の熱量」がありました。
上田 フェスゲは年中無休で、夜間も申請すれば使えました。だからとても自由な環境だったけれど、でも、もちろん社会に対する態度というのを担保しないといけなくて、自由と社会のバランスであったり、どこまで際を深く考えるかというのもありました。
甲斐 僕はむしろ、あれは自由ではなく「権限と責任」だと捉えています。だから公金、税金で場所を得られて、与えられている責任として、ここには社会的ミッションがある。remoは、テレビや映画ではない映像表現をどう開発するかという使命を持っていました。自由にやるのではなく、責任をもって「開発」し「言語化」し「共有する」こと。それが僕らの態度でした。
上田 そういった意味ではココルームもたいがいのことばかりしていたので。開く、表現する、言語化するというのは心がけていました。
甲斐 假奈代さんとかは開く形で、責任を負っていたわけですけど、例えば、remoでは国立民族学博物館の教育学の博士とワークショップを設計する研究会を2年間やっていました。参加者が何を持ち帰れるのかという議論と実践を積み重ねながら1個のワークショップを育てたことがありました。それが僕にとっての責任と権限でした。
大澤 ただ単に場所を使うにあたって、時間の制約があるとか、禁止事項があるとかから解放されて、でも何やってもいいというわけではなく、自分たちのミッションを突き詰めていくとか開くとか、その責任とか権限ということなんですね。
上田 お客さんは11時までには出さないといけないし、スタッフは12時までは普通にいられて、12時以降残るのであれば夜間申請するという約束事は守っていました。
甲斐 フェスゲには複数の団体が入っていて、財団が外注した事務局も入っていて、その外注先を僕の会社で担っていました。つまり、僕はremoの代表であり、事務局でもあるというやや危ない状況で、どうすれば活動が制約されずに済むかを一緒に考えていました。現場の柔軟さを作ってくれたのは、その事務局長を担ってくれた角(すみ)さんという人物がいて、そうした調整役の存在が大きく、彼女だからできたことも多くあったと思います。
横堀 事務局に角さんや野添さんといった事務局の方々がいてくださったから、本当に濃密な関係が築けました。
甲斐 角さんは舞台制作出身で、最初は音楽のライブが時間通りに始まらないと怒っていた。でも徐々に理解してくれて、ジャンルによってマネジメントが違うことを吸収していってくれたからやれたと思います。


「仲間」に対する態度

大澤 次に「仲間」に対する態度です。
フェスゲではジャンルの違う団体が同じ屋根の下にいました。年末のトークで最後に甲斐さんが言っていた、「醬油の貸し借り」みたいなものが起きていて、セーフティーネットみたいになっていたという話が面白いなと思いました。
甲斐 最初は互いを牽制しあうことがゼロではなかったです。でも、「プロジェクターが足りないんだけどなんとかならない?」みたいなことを他の団体に聞いてつないでいるうちに、1年もしたら直接やりとりしていました。醤油の貸し借りみたいに、機材を貸してとか、バイトする人いないか、とか。
横堀 こういうセッションをやりたいと思っているダンサーがいるのでミュージシャンを紹介してくださいとか、そのようなことは日常的にありました。当時DANCE BOXのスタッフだった塚原さんは、今KEX(KYOTO EXPERIMENT)のディレクターなのですが、フェスゲに出入りしていたアーティストが塚原さんの活動の基盤になっているような感じがします。假奈代さんが釜ヶ崎で続けていることとか、それぞれが活動を止めずにいろんな形で続けていると思うだけで、何より励みになります。
上田 ココルームはカフェという形で真面目に365日開けていて、いろいろな人たちが出入りする中で、他所の団体さんの方や出演者やお客さんがよく来てくれて、広がったところがありました。ココルームで話を聞いているうちに、この子はremoに行った方がいいと思って、隣に連れていくとかしたこともあります。
甲斐 その人は今もコアなメンバーです。
大澤 オンラインでは生まれない関係ですね。物理的に近くて、すぐ隣に行ける距離感があった。
横堀 そうですね。新長田の今の拠点でも、もう少し違うジャンルの人が2、3組いたら、もっといい化学反応が起こるかもしれません。

大澤 フェスゲ出身の作家が今も第一線で活躍していますね。梅田哲也さん、コンタクト・ゴンゾ、アサダワタルさん…
上田 つるぎくんもそうですね。森本アリさんもだし、西川文章さんも活躍されているし。
甲斐 フェスゲのはじまりのころ、たとえば団体の中から「あれはアートじゃない」というコメントがあったりしましたが、僕は「揉めろ、揉めろ」と思っていました。揉めた先で、やめる人がいたら、また他のグループが入ったらいいくらいのつもりでした。でもそうはならずに結局お互いに動きを見ていく関係になっていきました。不思議なのは、どれも質が高かったということです。假奈代さんとかは、当時「何やってんねんこの人」っていう状態でしたが、今は釜芸をやって横浜トリエンナーレに出ているわけで、そういう社会的にも認められているアートの分野でアクションされています。ブリッジには外国のアーティストがいっぱい来ている場所でした。若いブリッジのメンバーが50人くらいいて、ポップなミュージシャンとは全然違う現代音楽の世界で、ぐちゃぐちゃなんですけど、そういう人たちが外国と直接つながって、内橋さんは常に欧州ツアーに呼ばれるというとても質の高い状態でした。DANCE BOXもそうで、大野一雄さんが来るし、それがすぐ横にあるのが関わっている若い人たちには面白いと思う。新大阪に移ったときには、remoにデヴィッド・グレーバーが来てるとか、誰が見ても面白いというように整ったアングルじゃなくて、分かりにくいめちゃくちゃなアングルだと思いますが、それで良い。ダンスボックスの誰かが、ココルームのあのところが面白いって影響を受け合うというのが若い人には面白かったと思います。
大澤 市の担当者がこの4つを選んだのは、結果的に先見の明でしたね。
甲斐 別に何か持っていたというわけじゃないと思います。各分野でやりたいことがあって、問題意識がほどよく重なっていたんだと思います。


「制度」に対する態度

大澤 次は「制度」に対する態度です。行政の方針転換で事業が終わり、交渉も不調に終わった。契約書もなかった。あのとき、どんな思いでしたか?
甲斐 怒りはありましたが、役所の人はいい人たち、真面目な人たちなんですよ。多くはまったく悪い人じゃないんです。上からの指示に従うしかない立場でした。制度的にはもう立ちいかないところになっているのは分かるので、これ以上、抗うとすると裁判になってしまう。もし自治体と裁判することになると、たとえばDANCE BOXが神戸市との契約が難しくなって、神戸に移る機会がなくなってしまう。そんなことを考えたらもう潮時だねと話しました。
上田 当時は行政と仕事をする経験がなく、契約があるものだとすら思っていませんでした。
横堀 大谷さんも、ずっと民間の劇場でプロデューサーをやっている中で、大阪市の事業を受けてはいましたが、そこまで大きなプロジェクトではなかったので契約書を交わしたことはなかったと思います。
甲斐 25年前の景色は、そんなものだったのかもしれないです。

上田 私は京大西部講堂にいたので、みんなで話して決める自治的なやり方が当たり前でした。だから、行政から「出ていってください」と言われても、すぐには理解できませんでした。
甲斐 担当者が追い詰められて体調を崩すほどだったので、もう戦う意味がなかった。僕らにはそれぞれの活動を続けるためのエネルギーを残しておく必要もあったと思います。
横堀 DANCE BOXでも裁判を検討しましたが、次の場所で活動する方に力を注ごうと話しました。
上田 柳のようにしなやかに。悔いのないくらいのことは全部やって、それでもダメなら受け入れる。フェスゲでの経験は大切でした。行政や公共を「敵」と決めつけたくはなかった。私はフェスゲの落とし子だと思っています。
甲斐 それでも、今でもひとつ大きく後悔していることがあります。せめて、2日間だけでも籠城して記録を残すべきだった。新聞に一枚でも記事が残っていれば、歴史として残せたのに。
上田 本気でやるなら逮捕覚悟でやらないとね。
甲斐 そう、あのときはそれが思いつかなかった。
大澤 でも、その省察が今の「態度」そのものだと思います。


「社会」に対する態度

大澤 あと、社会に対する態度です。僕は「ビッグ盆!」が行われたのがその態度で、フェスゲから出ていかざるを得なくなりつつあったときに、社会とどう向き合うかということが、「ビッグ盆!」というイベントに表れているんじゃないかと思います。「話ばっかりせんと、なんかやれ」といった商店街のおやじさんに対して応えようとしたというのは、すごいことだなと思いました。
甲斐 商店街のおじさんに「なんかやれ」と言われて、逆に「あなたたちが動け」と言い返したこともありました。言い合える仲間だったというのがあるんですけどね。
 僕らは商店街のパレードにも出ていました。サンバや子どもたちの出し物の列にアーティストが入っていくみたいなこともしてましたね。
上田 地域の人と関わることは、フェスゲでも釜ヶ崎でも変わっていません。伝わらない相手と一緒にいるという日常が続いているだけです。
横堀 当時のDANCE BOXを思い返すと、自分たちの活動の主軸は劇場が中心でしたが、新長田に移ってからは地域との関わりが濃くなりました。地域の人を知り、街の中で活動をつくるようになった。あれはフェスゲでの経験の延長だと思います。
大澤 ココルームが釜ヶ崎でマジョリティではない人々と関わっている姿勢が、DANCE BOXにも受け継がれていますね。
横堀 そうですね。假奈代さんの活動にはずっと影響を受けています。釜芸の「おっちゃん」の話、あれを何度も読み返しているんです。文字を書けないことを笑わない人たちだとわかったときに、初めて彼がワークショップに参加した――その話に何度も自身の活動を問う時間になっています。


フェスゲでの経験/行政は何を目指していたのか?

笹島(大阪公立大学)
私は社会学を専門にしていて、昨年度の授業で学生たちと「フェスティバルゲート」をテーマに実習を行いました。新聞記事や当時のパンフレットを調べ、各NPOの方々にインタビューもしました。学生たちはアートに詳しいわけではありませんが、調べていくうちに「公共性とは何か」を感じ取っていきました。
 DANCE BOXは若手ダンサーの育成、内橋さんはコンテンポラリー音楽、上田さんは表現者の「食と生活」、甲斐さんは市民メディア――それぞれ違うアプローチながら、みな公共性を意識していたように思います。なぜ彼らが2000年代初頭の新世界に集まったのか。阪神・淡路大震災の影響なのか、東京への対抗意識なのか、あるいは情報化時代の「個と世界のつながり」なのか。そうした問いが、今も私の関心にあります。

大澤 同時代を体験した方はいらっしゃいますか?

筒井潤(演出家・劇作家)
私は吹田在住で、当時は京都芸術センターによく通っていました。フェスゲは主にブリッジに行っていて、ライブをたくさん観ました。謎めいた建物そのものがワクワクする場所でしたね。ジェットコースターが絡みつく外観を見るだけで胸が高鳴った。客として行くだけで何かが起こりそうな気がする。そんな空間でした。
 ダンスも演劇も、あの頃はいろんなジャンルが混ざっていました。フェスゲはその「混沌の発火点」だったように思います。

岡田千絵
私は大学生で、よくイベントを観に行っていました。駅で配られていた『カルチャーポケット(CP)』がきっかけです。大阪中の面白いアート情報が載っていて、それを頼りに新世界へ行きました。
 今思えば、CPをまとめるだけでも大変な作業だったはず。毎月、各団体に「来月は何をしますか」と聞いて回り、記事を作る。そうしたネットワーク形成の仕組みが、フェスゲ全体を支えていたのだと感じます。
 一つ気になっていたのは――そもそも大阪市の人たちがお手本にしたかったものとか、やろうと思ったきっかけとかっていうのは、どんなものでこんな形になったのかっていうのが聞いてみたいです。

甲斐 聞いてみたい、僕も。

大澤 おそらく発想の原点は、小暮宣雄さん(元・地域創造/後の京都橘大学教授)だと思います。彼が設計した「地域創造」的な考えが下地にあった。しかしフェスゲはその後、全く別の展開を見せました。行政が土地と光熱費を負担しつつ、アーティストたちが実質的にスクワット的に使う――ある意味で「黙認型アートセンター」でした。
甲斐 当時はフェスゲとBankART(横浜)がほぼ同時期に動き出しました。どちらも公設民営のモデルでしたが、日本では運営助成という仕組みが珍しかった。
上田 フェスゲは大阪だけの特異な事例ではなく、全国の芸術創造館やアポリア、京都の動きなど、いくつもの地層の中にありました。その中の一つの奇跡的な場所だったと感じます。
大澤 まさに「態度が歴史になる」というテーマそのものですね。


終わりに──態度が歴史になる

上田 フェスゲのことは、私にとって重くて大きなトピックです。あの場所にいたことは偶然でもあり、必然でもありました。一人ひとりが短い人生の中で、歴史の断片を担っていた。そう思います。私たちはその流れの中を、これからも泳いでいきたい。

大澤 ありがとうございます。今日一日は「ふりかえる」ということがテーマになってて、明日は「これからを考える」とか、こういう態度を分有していくことがテーマになっています。
この後は重鎮たちのお話を聞きますけど、明日また若い人たちの話も聞くので、ぜひこの先もお付き合いください。ありがとうございました。